【寄稿論文】

山嵜儀作が作った拝殿の向拝、本殿ならびに神楽屋台について 

 

1.拝殿に関して

 今回、屋根葺替工事がなされた拝殿であるが、明治7年に建立されたとされる(典拠は不明)。

 その後、明治18年(1885)頃に、妻科の宮大工・山嵜儀作によって向拝部(彫刻も含む)が付け加えられたことが文書から分かった。山嵜家の文書には、山嵜儀作が加茂神社向拝建築用に発注した材木の請負証券が残されている。

 今回の工事をきっかけに、鳥よけとして張られていた金網が撤去され、直に見ることができるようになった。各パーツは一木作りで1本のケヤキを彫り込んで作られた名工・儀作の代表作になる。まず、彫物を紹介する。

 

・向拝部の彫刻全体写真


・「松に鷹」(兎の毛通し)

 

 鷹の眼光が鋭い。「松」は常緑で永久を表す。また、鷹は最強の鳥である。両者の組み合わせは縁起物として掛け軸にも使われる。

・梁を左肩で支える「力神」

 筋骨たくましく、表情も凛々しい。

・中央部分「子引き龍」(メインの彫物)

 右に親龍、左に子龍。龍は高貴な霊獣で、ご神体を守護する。また、親子の形にする ことで、子孫繁栄を表す。

・両脇(木鼻)の「獅子」

  左が口を閉じた吽形、右が開口した阿形。拳の肉球まで詳細に表現されている。


・正面の梁(虹梁)前面に「波に千鳥」

  千鳥の部分は後付けではなく、梁と同じ木で出来ている。千鳥が波と複雑に絡み合っている。

 


・拝殿の向拝部を山嵜儀作が作ったことを示す文書(山嵜喜弘氏所有)

 

 祖山村(長野市戸隠祖山)の新井米蔵が山嵜儀作から加茂神社の向拝部の建築用木材として注文を受けたもので、金額は47円49銭で、樫、杉、松材となっている。これらは向拝部構造本体の材料であり、他に「獅子、龍の木取も含む」とあり、これは彫物の獅子、龍を接合するための加工を材木に施す加工のことを示す。

 請負証券では儀作の住所は南長野町となっているが、明治14年に妻科村は南長野町に改称され、さらに明治22年に他の町と合併し長野町になっている。明治18年に南長野町と記していることは矛盾しない。

(翻刻 峯村周治氏)


2.本殿について

 

 本殿は覆屋の内部にある。一間社流造りで正面千鳥破風付、向拝軒唐破風付の社殿。付属の彫物では、兎毛通(うのけどおし)には「鳳凰」、中備(なかぞなえ)は「龍」(写真)、虹梁は「渦に若葉」、木鼻は「獅子」、両脇障子は「松に鷹」(写真)、母屋正面方立には「松に鶴」がある。慶応四年の本殿棟札が確認できた。棟札の表面に棟梁・山嵜儀作の名と当時の宮司、世話人の名を認め、裏面には「慶応四戊辰年四月十有六日」と書かれていた。



 本殿建造に関する文書が残されている(山嵜喜弘氏所有)。以下に示したが、腰村の世話人と交わした慶応三年十一月の文書である。「妻科村彫工 儀作」は山嵜儀作である。「本社 一社」とあることから神社の本殿の請負ったことがわかり、翌年の慶応四年三月三日までに仕上げる契約内容である。旧腰村には、2つの神社、加茂神社(西長野町)と諏訪神社(新諏訪町)がある。諏訪神社の本殿は作風から山嵜儀作とは明らかに異なること、加茂神社本殿の完成時期(由緒、棟札)が文書の時期と一致することから、この請負文書は加茂神社の本殿のことを指す。


3.神楽屋台について

 

 現在、加茂神社には3台の神楽屋台(以下、神楽)がある。そのうち2台が例祭で使用されているが、最も大きな神楽は境内の蔵に保管されたまま人目に触れてこなかった。平成28年から氏子の方々の発案でその神楽を蔵から拝殿内に移動し、例祭で参拝者が神楽を見学できるようになった。神楽の形状は一間社流造で、総高は154㎝、総ケヤキ製の重厚な神楽である。神楽の製作時期であるが、毘沙門天が右手にもつ杯の上面に「明治二十七年」と刻まれている。彫物が沢山ついているが、特に目立つものは、両側面の妻部「力神」と欄間「七福神」である。


妻部「力神」

脇障子「高砂」



 神楽の製作者であるが、山嵜儀作の作と知られている安茂里の小西組神楽の「獅子」「力神」「七福神」の作風は、この加茂神社の神楽に酷似しており同一の作者(儀作)と考える。「明治の超絶技巧」が日本中で再評価されているが、この神楽もその部類に入ると言っても過言ではない。

 

・神楽の全体写真


4.彫物師・山嵜儀作について

 山嵜儀作は、天保二年(1831)の出生。十代前半から江戸三大流派の一つである石川流の流れを汲む赤沼の武田常蔵(ときぞう)に木彫技術を習い、その後、江戸で修業をしている。儀作は彫物製作だけではなく建築本体も手掛けた宮大工である。長野市を中心に活躍し、長野祇園祭の屋台(東町、問御所町、西後町、桜枝町、現在の元善町)を手掛け、武井神社本殿、丹波島の於佐加神社拝殿、若槻の蚊里田神社拝殿も彼の手による。須坂市福島地区の大幟の制作にも関与している。北信地方以外では、佐久の蕃松院本堂欄間、小諸の森山諏訪社本殿、東御の櫻井神社本殿、上田の太郎山神社がある。明治三十(1897)年に善光寺東隣の寛慶寺本堂内の欄間が最晩年の作品になった。明治三十一年七月六十七歳で没。


 

【謝辞】「寄稿論文」は、平成26~28年にかけて、宮大工研究家が当神社の現存社殿等の調査をしてくださり、その内容について、この記念誌のために寄稿していただきました。ここに御礼申し上げます。

 

※本人の希望によりお名前は匿名にさせていただきました


加茂神社の本殿、拝殿ならびに神楽屋台の年表

加茂神社拝殿屋根改修工事委員会事務局